が、大殿様は緊(かた)く唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑ひになつて、眼も放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。さうしてその車の中には――あゝ、私はその時、その車にどんな娘の姿を
qv嬰兒沐浴眺めたか、それを詳しく申し上げる勇気は、到底あらうとも思はれません。あの煙に咽(むせ)んで仰向(あふむ)けた顔の白さ、焔を掃(はら)つてふり乱れた髪の長さ、それから又見る間に火と変つて行く、桜の唐衣(からぎぬ)の美しさ、――何と云ふ惨(むご)たらしい景色でございましたらう。殊に夜風が一下(ひとおろ)しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉を撒(ま)いたやうな、焔の中から浮き上つて、髪を口に噛みながら、縛(いましめ)の鎖も切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。
するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠(まり)のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけ反(ぞ)つた娘の肩を抱いて、帛(きぬ)を裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。続いて又、二声三声――私たちは我
Neo skin lab 代理人知らず、あつと同音に叫びました。壁代(かべしろ)のやうな焔を後にして、娘の肩に縋(すが)つてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と諢名(あだな)のある、猿だつたのでございますから。その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。
が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。金梨子地(きんなしぢ)のやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車が凄(すさま)じい音を立てながら、燃(も)え沸(たぎ)つてゐるばかりでございます。いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさはしいかも知れません。
その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦(せめく)に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇(たゝず)んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳(おごそか)さがございました。でござい
QV嬰兒ますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。
鳥でさへさうでございます。まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。空一面に鳴り渡る車の火と、それに魂を奪はれて、立ちすくんでゐる良秀と――何と云ふ荘厳、何と云ふ歓喜でございませう。が、その中でたつた一人、[#「たつた一人、」は底本では「たつた、」]御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の指貫(さしぬき)の膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうに喘(あへ)ぎつゞけていらつしやいました。……